「ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ」
ふと大好きな茨木のり子さんの『自分の感受性くらい』を思いだしました。
『 感受性 』
テレビはバカの一つ覚えみたいに陽性者の数ばっかり言ってるから見る気がしないわ
世界的にみれば感染者が少ないのに医療崩壊しているシステムこそが問題じゃないの、家にいないやつに偉そうにステイホームとか、生活に困らないやつに外食だけが悪いことみたいに言われてもねえ、ぽっと出のPCR検査に振り回されてもっとぽっと出のワクチンまで打たされるなんてどうかしてるわ
そんなこと言ってたら「人が死んでるんですよ」って言う人がいたんだけどさぁ、よく考えてみなよ、人は死ぬんだよ、あたしもあんたもね、いつかは知らないが。
そんな話をある80歳の女性から聞きました、それはそれは楽しい時間で途中から2人で大笑いしながら話しました。
人はどこかに属していると思います。企業や肩書きや団体など、いつのまにかそういうものにある程度の言動が縛られていて、そういう縛りのある人の話はやっぱり当たり障りなく、またその属している組織に反しない話が多くなるわけですが、その80歳のおばあちゃんは自由でした、どんな政治家やリーダーよりも魅力的でした。
そしてこう言われているみたいでした。
「自分の感受性くらい自分で守れ
ばかものよ」
『 あと何回 』
〜お百姓はどれほど田植えをするのだろう
コックはパイをどれ位焼くのだろう
教師は同じことをどれ位しゃべるのだろう〜
茨木のり子さんの詩にはこんなのもありました。
そしてこんな不摂生をしながらもあつかましく平均寿命まで生きれたとすれば、あと37年あります。
37回新年を迎えて、13505回眠り、40515回食事をして、落ち込んだり、喜んだり、病院にいったり、そんな日常には必ず終わりがあるわけです。
人生はそうみるといつも限定版です。1日1日は貴重な時間です。
コロナで自宅にいる時間が増えることは感染症対策には大切なのでしょうが、あのおばあちゃんにとってはもっと大切なことがあったのかもしれません。
家にいると筋肉が衰えるように、人と接する時間が減ると心が衰えるのかもしれません。
人間は合理的な生き物じゃありません、そんな簡単じゃありません。コロナであきらめたくありません。
緊急事態宣言が出るこんなときだからこそ、ちゃんとちゃんとの学校は心だけでも自由にできるようなことをしたいと思っています。
誰かの人生の誰かの言葉が、どこかの誰かを元気にしてくれる、いよいよそんな100歳図書館を始めようと思います。
こんなときだからこそ