『 That’s Life 』

『That’s Life』直訳すると「それが人生さ」ですが、「仕方ないよ」とか「そういうこともあるさ」という意味だそうです。

「仕方ないよ」と言うより「それが人生さ」のほうがいい気がします。

 

 

大分に出張の夜、懐メロが流れる居酒屋で、70歳くらいの見知らぬ男性からなぜか熱燗をご馳走になり、なぜか生きていくために大切なことを教わりました。

「客が上だと思っちゃあいけないよ、いくらお金を払ったとしてもお酒をのませてもらっているという気持ちを忘れちゃあいけないよ、みんなおんなじ人間なんだから上とか下とかない、ハタチこえたらみんないっしょ…」

いつもならこういうとき、なんだかめんどくさい人につかまっちゃったなぁ、と思うところが、なぜだか身に染みてきました。熱燗にやられたのか?疲れていたからなのか?

それはそんな言葉がしっくりくる人だったからなのかもしれません。ビンテージジーンズみたいな顔のシワから滲みでるいいパワーみたいなものを感じました、同じ言葉を他の人が言ってもダメなんだろうなぁと思い、魅力的な酔っ払いに偶然出会う、これも人生だと思いました。

 

『 人生最後の… 』

最後の晩餐は何?そんな話題になることがありますが、あれは困ります。1食とは言わずにせめて最後の晩餐は1週間分くらいのメニューは言わせてもらいたいもんです。

これが最後だと言われたら誰もが悩むはずです。

旅好きなら人生最後の旅はどこにするかを考えるはず、ミュージシャンなら最後のステージでは何を演奏したらいいか、最後の〇〇は、、考えるとキリがなさそうです。

 

2007年9月18日、ペンシルバニア州ピッツバーグにあるカーネギーメロン大学教授のランディ・パウシュ(Randy Pausch)は「最後の授業」を行いました。

もともとこの大学には「命を終える時に行う最後の授業」という仮定のもとに教授たちが講義をする「最後の授業」という名物講義があったようです。

膵臓がんで余命半年を宣告された47歳のランディ・パウシュが行った仮定ではない”最後の授業”は専門のコンピュータ・サイエンスではなく「子供のころの夢を実現させる方法」というテーマでした。

その授業で出てくる「レンガの壁」の話があります。

レンガの壁がそこにあるのには理由がある。
その壁は、あなたがどれだけ本気なのかを試している。壁は子供の頃の夢を本気でかなえたい人と、それほどでもない人とを隔てるためのものだ。という部分が僕は大好きです。

そしてこの授業の最後には

「じつはこの最後の授業はみなさんに向けたものではありません、本当は私の子供たちに宛てたものです。」

そうして終わった最後の授業は心に刺さる75分間でした。

 

当たり前に今日が終わり、明日が来ると勘違いしているときに、色々と考えさせられるこの最後の授業は、そんな勘違いしている私たちに色々と考えさせてくれる授業でもあります。

人生の最後はいつなのか、それは誰にもわかりません。

最後の時間は誰と過ごすのか?、残された人に何を伝えるのか?、限られた時間で本当にやるべきことは何なのか?そういうことを考える、これも人生だと思います。

 

『 練習のための練習 』

政府が年末に編成する2020年度の当初予算案で、介護の予防や自立支援に成果を上げた自治体に配分する交付金を、現在の2倍の400億円程度へ大幅に拡充させることになるようです。

認知症予防や要介護度の維持・改善に向けた取り組みを自治体間で競わせ、介護費の膨張を抑える狙いがあるというようなことでした。

 

介護費の抑制は大切ですが、ただしそれはゴールではないはずです。

スポーツでは練習を頑張っていてもそれが試合に結びつかないと意味がない、練習のために練習では意味がないとよくいいます。

それと同じで介護予防や要介護度の維持や改善、認知症予防はゴールではなく、その先には元気な高齢者の姿があり、さらにその先には元気な高齢者がエネルギーになる豊かな社会があるべきです。そういう社会がつくられたときに本当に介護費の抑制がある気がします。

うまくは言えません、そしてそんなゴールなんてどうだっていい、と言われるかもしれませんがお金をかけないようにするために、人に迷惑をかけないようにするために、そのために頑張りましょうというだけではうまくはいかないのではないでしょうか?

ちゃんとちゃんとの学校では、4年ほど前からシニアのジリツを応援するプロジェクトをスタートしてきました。そのゴールはシニアが活躍する豊かな社会であり、そのために必要な”3つのジリツ”ということを学校の柱にしています。

高齢者支援は、より幅広い人に参加してもらえるようにしなければならないと思っています。なるべく面白そうだなぁと思ってもらえるように、肩肘張らず加わっていただきたいのでゆる〜くやっています。

これからも楽しくゆるくシニアのジリツを皆さまと一緒に応援していきたいと思います。

 

『 お詫び 』

最後に12月15日に東京大学で開催予定だった『ちゃんとちゃんとの学園祭』は今年は急遽場所を変えての開催となりました。

東京大学での開催を楽しみにされていた皆さまには大変申し訳ない気持ちでいっぱいです。
本当に本当に申し訳ありません。

私達も一年の締めくくりにと楽しみにしていたのですが、どうしても開催が難しくなりまして急遽、場所を変更して開催することになりました。

また開催するからには、より良いものをつくっていこうと思いますのでご期待ください。

詳細は近々に発表させていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

 

とにかく本当にごめんなさい。

 

 

『 共感の欠如 』

イタリアのサッカー選手バロテッリが試合中に観客席にボールを蹴り込み、試合が中断しました。

原因は相手チームのサポーターから出た、バロテッリに対する人種差別のチャントでした。

バロテッリは怒りで立ち去ろうとしますがチームメイトに説得され、再びピッチに戻り、ゴールを決めました。

バロテッリは問題をよく起こすことでも知られていますが、これはよくやったと思いました。

 

 

『JOKER』

圧倒的にDCよりマーベルが好きですが、『JOKER』にはやられました。久しぶりの名作でした。

映画の話です。

正しいと思うことは人によって違い、それが争いを起こすというのが世の常です。

 

1955年から約20年にもおよんだベトナム戦争は、北ベトナム側の推定戦死者数117万7千人、南ベトナム側は28万5千人、そして南北合わせた民間人の死者数は458万人以上にもなった壮絶な悲惨な戦争でした。

1960年代、ベトナム戦争にアメリカが本格的に軍事介入を始めてから、いつ徴兵されるかもしれないアメリカの若者を中心に反戦運動が活発になります。

さらに70年代にかけての雇用率の低下など先が見えない社会問題に対する不満、そんな1960〜70年代の反体制的な時代の影響をうけて作られた映画をアメリカン・ニューシネマと呼び、先程の映画『JOKER』はその現代版ともいわれています。

母親の介護をしながらコメディアンを目指していたジョーカーが、悪役のジョーカーになるまでが描かれているこの映画では、悪役が徐々に正義の味方に見えてきてしまう映画です。

監督のトッド・フィリップスが描きたかったものは「共感」と「共感の欠如」なんだそうです。

 

『 ジェネレーションX 』

ジェネレーションXとは、ケネディ政権の時代からベトナム戦争終結後までの時代にアメリカで生まれた世代のことで、13th Generation(第13世代)とも呼ばれているようです。

また日本では”新人類”なんて言われていた時代だそうです。従来とは異なる感性や価値観をもつ一風変わった若者を指す呼び方として、そういえば昔よく聞いた気がします。

その新人類と呼ばれた人達がシニアの世代になりつつあります。

シニアとは何歳からなのか?という明確な定義はないようですが、シニアは4つに分類できるのではないかと、株式会社日本SPセンターが運営するシニアマーケティングに関する専門サイト「シニアマーケティング研究室」にありました。

①ケアシニア(介護認定者)

②ギャップシニア(介護予備軍)

③ディフェンシブ・シニア(非就労健常者)

④アクティブシニア(就労健常者)

「ケアシニア」とは文字通り介護が必要なシニアのことで、

「ギャップシニア」とは要介護というわけではないけれど、日常生活の中で諦めや我慢が積み重なっている状態で「できること」と「やりたいこと」とのギャップがある人たちを意味しており、

「ディフェンシブシニア」とは年金以外の毎月の定額フローがなく、堅実な暮らしぶりの層のことで「守り」中心の消費者をイメージして、シニアマーケティング研究室が命名した、と書いてありました

「アクティブシニア」とは趣味やさまざまな活動、消費に意欲的な、元気なシニア層です。

 

マーケティングなんてよくわかりませんが、なるほど、そう言われたらそうなのかと思うのと同時に、少しの違和感も感じました。

3人に1人が65歳以上という時代にそこをさらに4つに分ける、そしてそこからさらに細かく分析していく、それはどれくらい正しくてどれくらい意味があるのかなぁ、と頭が悪い私には正直よくわかりません。

何かで分ける時に感じる違和感はなんなんでしょう?個人的にはあまり好きじゃないかもしれません。

人が人を分類するときに、どこかで得体が知れないものが怖いからなんじゃないかと思ったりします。

 

『知らない』

ちゃんとちゃんとの学校を始めてから、大きく変わった考え方のひとつが「認知症」に対する考え方かもしれません。

認知症になるということは、悲惨で恐ろしいことで、家族や社会に迷惑をかけてしまう、自分の親がなってしまったら大変だなぁ、そんな浅はかな認識しかありませんでした。

実際には認知症においてよく問題になるのは、認知症になれば誰にでも現れる「中核症状」(記憶障害や、いつやどこが分からなくなる見当識障害など)より、むしろ「BPSD(行動・心理症状)」(徘徊や暴言や暴力など)のほうです。

そして認知症でよく問題になるBPSDは、認知症になると必ず出るわけではなく、認知症の方と接する周りの人の接し方次第で、出なくすることができるようです。

ちゃんとちゃんとを始めてから、最前線で実践されている方々にお会いし、あらためて学ばせてもらった気がします。

認知症を分かっていたつもりが、現実は全く分かっていなかった自分を知りました。

認知症の予防は大切ですが、どう受け入れて、どう接していくのか、ということも同じくらい大切なことだといまは思っています。

また、知らないことは怖いことだなぁとも思いました。

 

現実には健康な人がやがて認知症になり、若い人がシニアになり、アクティブシニアがケアシニアになり、ディフェンシブシニアにもなることもあり、悪役が正義の味方にもなります。

 

シニアの自立支援を通じて感じたことは、やはりまだまだ私達はシニアを知らないということです。そして知ろうとしないことが目に見えない壁をかってに作っていることです。

シニア支援も、知ろうとする人が増えていくことがスタートであり大切だと思っています。

 

◼️⬜︎◼️ちゃんとちゃんとの学校◼️⬜︎◼️

シニア支援プロジェクト『ちゃんとちゃんとの学校』では

シニアに関わる方々やシニア支援に興味がある方と共にシニア支援を学び交流する授業、そしてシニアの方向けの授業を有志の方々を中心に2016年からスタートしています。

2019年は11月25日に大阪で『ちゃんとちゃんとの学校』を初開催、12月15日には東京大学にて『ちゃんとちゃんとの学校の学園祭』を開催いたします。

私達はゆるくまじめにをコンセプトにやっておりますので、どなたでも参加いただけます、ぜひ皆さまのご参加お待ちしております。

 

 

 

 

 

 

 

『 ちゃんとちゃんとのうた2 』

高齢者って嫌な言葉だ。

そう呼ばれて喜ぶ人なんていない。早くそうなりたいと思う人もいない。

 

嫌な事はやるべきじゃない、好きなことだけやればいいと言う人がいる。

でも歳をとるのは避けられない、時間は戻らない。

好きなことだけやるのは難しい。

 

生きていくことは、あきらめることの連続かもしれない。

宇宙飛行士をあきらめ、サッカー選手をあきらめ、なりたかった仕事をあきらめ、好きな人をあきらめ、自分の身の丈を知らされる。

あんなにとんがっていたはずが、転がる石みたいに気がつけば、みんなおんなじようになっていく。

いったい今までいくつ諦めてきたんだろう。

 

現実はそうはいかないことがそこいら中に、気がつけばあんなにあった夢の種はほとんど見当たらない。

 

 

そろそろ疑ってみるべきだ、今までの当たり前を、誰かが作った常識なんてだいたいニセモノだろう、本当は大した意味なんてないはずだ。

知らず知らずにそんなくだらないものに縛られ、知らず知らずにどうせそんなもんだろうと諦めて生きていくのが人生なら、歳をとることは辛いことなのかもしれない。

 

もっと生きていたかった人から見れば、長生きできなかった人から見れば、今日という1日は今の1分1秒という時間は何にも変えられない。

 

今まで母親として生きていた人がいる、今まで仕事に生きてきた人がいる、こうでなければならないという目に見えない柵、家族や仕事や立場、身体中に巻き付いた蜘蛛の糸から抜け出したとき、やっと自分になるのかもしれない。

長生きはもう一度生きることかもしれない。

 

新たな時代をつくるのは若い人だけなのか?

人類が経験したことの無い長生きな時代の最先端にいるのは、生まれ変わりもう一度生きていくことを決めた人たちに違いない。

 

高齢者支援プロジェクトという呼び方が好きじゃない。

だからちゃんとすることにしました。新たな時代の最前線にいる人たちの学校として